モーツァルト讃




  今年はモーツァルトの没後200年にあたり、世界各地でさまざまな催しが盛大に開かれると聞く。モノが充ち足りると、おしつけがましくない音楽がうけるのか、世はまさにモーツァルトブームといってもよいくらいだ。
音楽切手を蒐め出してもう30数年になるが、切手の世界でもモーツァルトは王者の貫禄でその数が多い。ほとんどの切手の図柄が彼の横顔なのは、斜視のせいで正面向きの肖像画を嫌ったためというのもご愛嬌だが、今年も没後200年を記念する切手が世界各国でわんさと出されることは間違い ない。これも平和の証左で大いに欣ばしいと思う。

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   学生時代日比谷公会堂でブダペスト弦楽四重奏団の演奏を聴いてクァルテットの虜となった。その後 偶々
ニューヨークに在住して、当時全盛を極めたブダペスト四重奏団に首ったけとなり、ベートーヴェンに始まって ハイドン、モーツァルト、ブラームス、シューベルトの全曲連続演奏会に欠かさず出向いた。今思えば私がモーツァルトに傾いて行った最初のとっかかりは彼のクァルテットであった。
 それからは齢を重ねるにつれてモーツァルトの魔力に惹かれ、愛着の度が増幅して とどまるところを知らない。それと裏腹に他の作曲家の作品への関心が少しづつ薄れているようでもある。

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  モーツァルトの世界に入って行くのに誰しも一度はくぐる門は小林秀雄の評論「モオツァルト」だろう。所もあろうに道頓堀をうろついていた時にト短調交響曲のテーマが突然頭の中に聞こえて来て、本当に悲しい音楽とはこういうものだろうと感ずる。それから更めてモーツァルトの音楽の根底を追い求めた末、アンリ・ゲオンに倣って「疾走する悲しみ」がそれだと悟る。彼はモーツァルトの作品のなかでも数少ない短調の曲にことさらスポットを当て悲しみを強調しているきらいがある。
  宮本輝に「錦繍」という小説がある。「モーツァルト」という名の喫茶店でモーツァルトを聴く傷心のヒロインの口を藉りて、モーツァルトという天才は悲しみと喜びの二つの共存を 言葉を使わずに人に教えることができるというくだりがある。小林と宮本では感性の格の違いが大きいかも知れないが、私には宮本のモーツァルト観の方が何となく好ましく思える。

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  モーツァルトの作品の中から好きなものを選び出すのはむずかしい注文だが、 どうしても一つと言われればディヴェルティメント第17番(K334)を挙げる。中でも ウィーン八重奏団の演奏がすばらしい。大げさなようだが何度聴いても身体が宙に浮き心が晴れる。限りなく清澄な風が体内を通り抜けてストレスを追っ払ってくれる。

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  天上の星屑のように沢山あるモーツァルト頌の中で、ナンバーワンはアインシュタインのそれであろう。彼は死とは何かという問いに答えて曰く、「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」と。私はそれでは困るとあらかじめ手を打っておくことにした。 常々家人に私が死んだらモーツァルトで葬送してくれるように頼んである。
 
                                                         ( 1991年12月記 )



 
 
 


                          二つのアマデウス



   アマデウス弦楽四重奏団を聴いたのは建国記念日であった。 休日のマチネーというのに、会場の
ザ・シンフォニーホールは、見渡したところ全く空席のない満員の入りであった。
  ハイドンの「皇帝」では、各パートがソロで歌うオーストリア国歌の旋律の暖かさに酔い、ドヴォルザークの「アメリカ」では、第二楽章のアンサンブルの見事さに、40年間一人のメンバーチェンジもなく合奏してきたチームの真骨頂を見る思いがした。
 この日のお目当てはベートーヴェンのラズモフスキー第3番。チェロのピチカットで始まる第2楽章もよかったが、何といっても圧巻は第3、第4楽章と切れ目なく続くフィナーレだった。時に第1バイオリンの金切り声が耳障りとなったものの、全身全霊を挙げて取り組む真摯でダイナミックな演奏にすっかり打ちのめされてしまった。
  幾度か繰り返されるアンコールの拍手に一切応じなかったのも、本演奏に精力のありったけを注ぎこんだ当然の帰結であったのかも知れない。

  映画「アマデウス」を観たのはそれから数日後であった。
  2時間40分の全篇をモーツァルトの名曲で埋め尽くしてくれるのだから、モーツァルトファンにはこたえられない。天才モーツァルトと凡庸作曲家サリエリの対立をテーマとしている点に変りはないものの、先年観た同名の芝居以上にサリエリが主人公となり、モーツァルトがカリカチュア化されている印象を受けた。終盤、モーツァルトの頭に浮かぶ「レクィエム」の旋律を、なんと人もあろうにサリエリが記譜してやるというのも妙な話ながら、鎮魂の調べを生み出して行く二人のやりとりはまこと息づまるばかりであった。

  齢いくつになっても感動する心だけは失いたくないものだ。これからも深い考えの潜む文を読み、美しい絵や音楽に触れたいと念じている。                   (1985年5月記)